明るい気持ちで書きました。

『魂の塊』

ふとした縁で彼と出会ったのは数年前。ほんとうにたまたま。飲み屋で隣あった。10分も話もしないまま、彼は颯爽と帰っていった。けれど伝え置いた私のちっぽけな職場に、彼は来てくれた。カメラを携えて。

記憶は前後左右、忘れてしまうけれど何度か遊んだ。お酒のんだりプラプラしたり。

やがて彼は遠くに写真を撮りにいって、おれは生活をして。

久しぶりに会った。目的は、ずっと遠くにいた彼がつくった写真集を買うため。彼の展示に向かった。今回の会場は、彼の写真というより彼の描く絵の展示の趣き。彼は絵も描く。どちらにせよ、彼の展示。

展示の開かれたカフェには彼の絵が飾られて、みななにかを飲んだり喋ったり。彼は絵に囲まれた店のなかで変わらない。いつも飄々として、混み合う店内にいるおれにも気づかないで、涼しげに座って、おれの知らないひとと柔かに話す言葉は福山のイントネーションで。

ああ。なつかしい彼の声や口癖を聴きながら、おれは端っこでビールを飲んだ。うまい。飲み干して、彼の座るテーブルに挨拶へ向かう。シラフでは照れ臭くてようやく。

彼の手から

限定部数の写真集を手に入れた。シリアルナンバー入り。おれは71番を選んだ。直感で素数だと思った。割り切れない数字の刻印が相応しい、灰色のカバーの写真集を手に入れた。

彼と数年ぶりに会った。

数年前、西新宿で彼と歩いた。断続的に澄んだ鳥の鳴き声が聞こえて、彼とキョロキョロ頭上を眺めた。鳥はいなかったから不思議だった。
あの澄んだ音色は彼の歯笛だった。こっそり悪戯をする。
彼はひとを欺く。澄んだ歯笛。彼に撮影してもらった職場の写真。ホームページに使わせて貰ったけれど、職場は倒産した。
何度か電話したり、繋がったり繋がらなかったり。繋がったらいつもの声。
甲高い歯笛とは対照的に、湿度を帯びた声。溶けたキャラメルのように、ひとを離さない声。

彼からようやく写真集を買った夜、おれはしたたかに酔い、非道に傾いた。
ひとりになろうと、ひとを遠ざけた。
動物に憧れて。

暗い深夜を抜けて、太陽とともに新しい日が始まり、わたしはわたしの矮小さや、前夜の動物に寄った非道を思い返しながら1人がけのソファに座り、酔いながらも忘れずに持ち帰った彼の写真集を開いた。

それは写真集か画集か詩集か、わからない塊で、綴じる色とりどりの糸さえ引きちぎられようとしながらどうしようもなく纏まって、これまで見てきたもので一番近いものはお墓だった。まだ死せず、まだ生きる彼が墓をこしらえて、これは彼だった。世界に放射するエネルギーを無理矢理固めて灰色のケースに収めた表表紙にエピタフは刻まれて、うしろに彼の肖像がある。美しい肖像。しょうがないよ。美しい。

彼はいつも、山や海や空や宇宙みたいな大きな物を抱えこまざるを得ない宿命のようにおおきな体躯を維持してでもそんなの本人次第ながら破裂しかける矮星を制御してるようなのにいつもブラックホールのように重力をハートの一番奥底に集約することでひとのかたちをあらわしているような、ほとんど神話的でありながら常に総てを横滑りさせて時折きざす眼下の隈さえメイクのように湾にとろめく水より硬い眼の色は当然つよい色だ。

おれは笑った。わたしは笑う。なんてすごいのか。すごい。すごいと笑う。おれはずっとこの世が不愉快だったから、おれは笑わなかった。でも久しぶりに笑った。なんだろう。感動なんてセコいやつじゃない。おれは笑ってしまった。なんだろう。なんだろう。おれは嬉しくて、いや、違う。おれは笑った。なんだろう。涙なんて流さない。笑って笑って笑ってしまった。すごい。

藤元敬二写真集。
おれは71番を手に入れた。
いいだろう?割り切れない素数。
いつかあなたは、4258369427番くらいを手に入れて、きっと救われてしまうよ。